定秀寺由緒

河野家の家紋の画像
河野家家紋(折敷に揺れ三文字)

北條鹿島城主、河野四郎左衛門尉通定、本願寺の実如上人に帰依し、蓮如上人の十字、実如上人の六字の尊を賜り中西館、別室を蓮華室と名付け安置、尊敬す。

 

元亀元年(1570年)本願寺顕如上人、織田信長と石山本願寺(現大阪城)にて対陣せし時、息、六郎左衛門通秀と共に籠城す。

 

天正元年(1573年)通秀出家得度し宗徳と言ふ。

 

天正四年(1576年)七月、毛利、村上氏、竹原長善寺門徒と共に織田氏水軍を大坂の木津川に破り大功ありと。

 

天正八年(1580年)石山合戦終結と共に国に帰り蓮華室を改め専光寺を設立す。

 

慶長十年(1605年)三月、松山城主加藤嘉明の招請により、現在地に移転入仏供養す。

 

寛永十年(1633年)四月十三日、本願寺より通定、通秀の功を末世に伝ふべしとて、定秀寺の寺号を賜ふ。

 

大銀杏は慶長十年来津のみぎり北條より移せしもの、樹齢三百九十年なり。

 (現在、樹齢推定420年以上)

 

 


解説

通定
通定

 河野通種直系の子孫であり、通有の三男、河野通定が開基となる。通定は伊予風早の地を治めていた鹿島の城主であったが、河野本家の家督争いを嘆き、城と領地を捨てて中西村(北条中西内)に蟄居しました。
 通定は本願寺第八代門主 蓮如上人の教えに遇い、敬慕していた。

 大永二年(1522年)、山科本願寺へ上山したとき、第九代門主 実如上人から蓮如上人筆の十字名号などを賜り、中西村に帰って安置し礼拝することとなりました。

寺宝 十字名号(蓮如上人御染筆)
寺宝 十字名号(蓮如上人御染筆)

 天文二十年(1551年)、生玉の御坊(石山本願寺)へ上山した際にも、本願寺第十代 証如上人から方便法身の絵像(阿弥陀如来立像)を賜りました。

寺宝 方便法身尊像
寺宝 方便法身尊像
裏書
裏書

 元亀元年(1570年)、無理難題を持ちかけてきた織田信長と本願寺第十一代顕如上人率いる石山本願寺が戦った(石山合戦)とき、四国の地から、いち早く駆けつけたのが、河野通定とその子通秀でした。二人は籠城に加わり、顕如上人を助け、多くの門徒とともに戦いました。

 

 信長軍に本願寺が包囲され補給路を断たれたとき、本願寺は中国の毛利氏に支援を要請しました。毛利氏は直ちに援軍と兵糧などを海上輸送しましたが、この主力となったのが河野・村上水軍だったのです。この戦いは、天正八年(1580年)、和睦によって終結しました。
 
 天正元年(1573年)、顕如上人から通定に「釋円了」、通秀に「釋宗徳」の法名を授かりました。その後、国に帰り中西の館を「蓮華室」と名付け、念仏のみ教えを風早の人びとに伝える日々を送りました。その教化によって往生浄土の法は、広く郡中に広まったのです。後に、居を柳原に移し「専光寺」と寺号を改めました。
 
 慶長十年(1605年)3月、松山城主加藤嘉明の招請により、海路の要所である三津浜(現在地)に、寺基を移転しました。
 
 寛永十年(1633年)4月、本願寺第十三代 良如上人から石山合戦における通定と通秀の功により、「定秀寺」の寺号を賜りました。

(定秀寺第一世、釋宗徳)

 

 現在地にある大銀杏は、慶長十年に北条柳原から移転の際、庭にあったイチョウの大木を、当時のご門徒方が遥々運び植えて下さったものです。寺基移転の際、ともに三津浜へ引っ越されたご門徒も多くいらっしゃいました。