
当寺は河野通種(こうのみちたね)直系の子孫であり、通有(みちあり)の三男である河野通定(みちさだ)が開基となりました。 通定は伊予風早(かざはや)の地を治める鹿島の城主でしたが、河野本家の家督争いを嘆き、城と領地を捨てて中西村(現・松山市中西内)に蟄居しました。
通定は本願寺第八代・蓮如上人の教えに遇い、深く敬慕していました。 大永2年(1522年)、山科本願寺へ上山した際、第九代・実如上人から蓮如上人筆の十字名号などを賜り、中西村に帰って安置し礼拝することとなりました。

天文20年(1551年)には、生玉の御坊(石山本願寺)へ上山した際にも、第十代・証如上人から方便法身の絵像(阿弥陀如来立像)を賜っております。


元亀元年(1570年)、織田信長と本願寺第十一代・顕如上人が戦った「石山合戦」の際、四国の地からいち早く駆けつけたのが通定とその子・通秀(みちひで)でした。二人は籠城に加わって顕如上人を助け、多くの門徒とともに戦いました。 また、信長軍に包囲された本願寺に対し、中国の毛利氏が海上輸送した援軍・兵糧の主力となったのが、河野・村上水軍だったのです。
この戦いの最中である天正元年(1573年)、顕如上人より通定に「釋円了」、通秀に「釋宗徳」の法名を授かりました。戦の和睦後、国に帰り中西の館を「蓮華室」と名付け、念仏のみ教えを風早の人びとに伝える日々を送りました。その教化により、浄土の法は広く郡中に広まりました。後に、居を柳原に移し「専光寺」と寺号を改めました。
慶長10年(1605年)3月、松山城主・加藤嘉明の招請により、海路の要所である三津浜(現在地)に寺基を移転。寛永10年(1633年)4月、本願寺第十三代・良如上人より、石山合戦における通定・通秀父子の功績を讃えられ、「定秀寺」の寺号を賜りました。 (定秀寺第一世、釋宗徳)
現在地にある大銀杏は、慶長10年の移転の際、柳原の庭にあった大木を当時のご門徒方が遥々運び植えてくださったものです。寺基移転の際には、ともに三津浜へ移り住んだご門徒も多くいらっしゃいました。